コミュニケーションのスキルを磨くことは社会において生きていくうえで非常に重要なことではある。

だが、それを重視するのは良いものの、目先の手軽さに飛びつくようにわざわざコミュニケーションの質を落とすような手段を選択するのはいかがなものか。

直接対話

電話対話

チャット対話

メール対話

伝聞(対話)

下にいけばいくほど、対話する際に相手に伝えようとしていることと、実際に相手に伝わることとのあいだに齟齬やエラーが多くなる。

対話ではなく会議という形式をとれば尚更で、議事進行役がいないとn(n-1)/2の対話ばかりではなく、1:x(1<x≦n)の意思伝達も行われることになり、特にチャットなどの形式をとると議題や議論が散漫になって収拾がつかなくなってしまうことが多い。

メール会議は、1:nの意思伝達形式にはめ込んで意思伝達の数を減らすメーリングリストという形態が存在することで体をなしてはいるが、対話と比べると非常に密度が低いものになっている。

多人数間の意思伝達を伝聞に依る場合など、そもそもの意志が希薄化して、噂という残滓のみが人の間で揺れ動くこととなる。

何が言いたいのかというと、僕を含めて僕のまわりの人間が現状のコミュニケーションスキルを如何に駆使しようとも、スピードと質、手軽さの三つを考慮してみても、対話なら電話、会議なら最低限スカイプを超えてまともなコミュニケーションがはかれるとは思わないということだ。

安易に楽な手段を選択することなく、ある程度正確な意思伝達が行える手段に於いてより正確に的確に意思伝達が出来るようにコミュニケーションスキル(この言葉は実のところ相当多様な意味合いをもつため、平たく使いたくはないのだが、今回は敢えて用いる)を磨きながら、それほど重要でない局面を使いつつより難しい手段でのコミュニケーションスキルを磨いていくべきだと言うことだ。

自戒の念も込めて、そんなことを少し書いてみたかった。